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青山ハッピー研究所 ハピ研

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本物のウイスキーを追い求めて。

昨年から開催している「NPO法人シブヤ大学」と「ハピ研」のコラボレーションによる公開授業「Happy Dialog Deck」。今年は6月26日(土)に第一回目として、「ウイスキーに恋した竹鶴政孝の人生」をテーマに開催。ニッカウヰスキー株式会社の平井光雄取締役を講師に、国産ウイスキーの生みの親として時代の最先端を駆け抜けてきたニッカウヰスキー創業者・竹鶴政孝の人生を振り返りながら、ウイスキーにまつわる基本の「き」を解説しました。近年、ハイボールのブームでウイスキーの価値が見直されつつあるだけに、会場は多くの受講生で賑わいました。今回は当日の講義の様子をわかりやすくアレンジしてお伝えします。

特別授業:「シブヤ大学×ハピ研 〜Happy Dialog Deck 2010〜しあわせな時間〜」
テーマ:「ウイスキーに恋した竹鶴政孝の人生」

開催日:2010年6月26日(土)
会場:青山・ニッカ ブレンダーズ・バー
講師:平井光雄(ニッカウヰスキー株式会社 取締役)

学ぶ〜日本のウイスキーの父と呼ばれた男の源流。

竹鶴政孝の一生

“日本のウイスキーの父”ともいわれる竹鶴政孝は1894年、広島県竹原にある造り酒屋に生まれた。九人きょうだいの三男だったが、兄二人が別の道を志したため、家業を継ぐべく大阪高等工業学校(現在の大阪大学工学部)醸造科に入学する。ここでウイスキーと出会ったのをきっかけに、竹鶴は洋酒作りを志すようになった。実際、卒業後は実家に戻らず、大阪の大手洋酒メーカーであった摂津酒造に入社した。当時の国産ウイスキーはアルコールに香料を足した「イミテーションウイスキー」だったことから、本格派を志向していた竹鶴は満足することができなかった。そこで、日本人に本物のウイスキーを伝えるとの使命感を抱いて、竹鶴はウイスキーの本場であるスコットランドに留学し、グラスゴー大学や現地の蒸溜所でスコッチ・ウイスキーの製法を学んでいく。また、現地で一生の伴侶となるジェシー・ロベルタ・カウン(リタ)と出会い、結婚をして1921年に帰国を果たす。しかし、当時の不況の影響から摂津酒造がウイスキー製造を中止したことを受け、竹鶴はやむなく退社をする。紆余曲折を経て寿屋(現在のサントリー)に入社し山崎蒸溜所を建設。初代工場長となり、国産初の本格ウイスキー「白札」を世に送り出すことに成功する。 余市蒸溜所のポットスチルさらに、竹鶴は、1934年に寿屋を退社、その後、留学したスコットランドのハイランド地方に似た冷涼な環境と自分の理想を追い求め、北海道・余市にニッカウヰスキーの前身となる「大日本果汁株式会社」を設立する。 余市ではモルトウイスキーの製造に取り組み、苦労に苦労を重ねて1940年に第1号ウイスキー「ニッカウヰスキー」を商品化。戦中、戦後の混乱の中で時代に翻弄されるが、戦後のウイスキーブームで事業は軌道に乗り出し、「スーパーニッカ」「ハイニッカ」など今日まで続くヒット商品を開発する。1969年には、二番目の蒸溜所として仙台市郊外に「宮城峡蒸溜所」を完成させ、やわらかく華やかなスコットランドのローランド地方の味わいを追求。力強く重厚なハイランドをイメージした余市と合わせて、ニッカウヰスキーの二枚看板が完成した。1979年、ウイスキーに全人生を捧げた竹鶴は、惜しまれつつこの世を去る。享年は85歳。
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竹鶴政孝氏(以下‘竹鶴’/敬称略)は造り酒屋に生まれましたが、なぜ、日本酒ではなくウイスキーに方向転換したのでしょうか?

平井竹鶴は大阪高等工業学校で醸造学を学びました。時代はちょうど大正初期。当時は日本全体が西洋に憧れの念を持っていたこともあり、学び舎で出会ったウイスキーに竹鶴も熱い思いを得たのではないでしょうか。日本酒からウイスキーへと方向転換はしましたが、もともと竹鶴は酒造りへのセンスに恵まれていました。本人いわく子供の頃、家の階段から落ちたときに鼻を打ったのをきっかけに、嗅覚が異常に高まり、普通の人にはかぎ分けられない香りもわかるようになったそう。鋭い嗅覚は酒造りに携わる者はもちろん、ウイスキー・ブレンダーに欠かせない要素といわれています。竹鶴が目指したのは複数のウイスキーを混ぜ合わせて香りを高めた「ブレンドウイスキー」でしたから、竹鶴の鼻の良さは、ウイスキー作りにとても役立ったわけです。また、造り酒屋を営む竹鶴の父は「酒はつくるひとの心が移るものだ」とよく話していたそうです。だからこそ、竹鶴はウイスキー造りに妥協を許さなかったのでしょう。育った環境も竹鶴の哲学に多大な影響を及ぼしたようです。ちなみに竹鶴政孝は実家を継ぎませんでしたが、竹鶴酒造は今もなお健在で、広島県竹原市で老舗の酒屋として良質の酒を造っています。

竹鶴がウイスキー作りを志した大正時代、日本ではどれくらいウイスキーは愛飲されていたのでしょうか。

平井はっきり申し上げて、微々たる量です。竹鶴が学校を出て、摂津酒造に入社をした頃は、第1次世界大戦による大戦景気に沸いていた時代ですが、それでも日本での輸入ウイスキーの販売数量はわずか約195キロリットル(1915年)。現在の400分の1に過ぎない小さな市場だった上に、価格も高額だったため、多くの庶民はその味を知ることはできませんでした。そんな中で竹鶴が危惧したのは、イミテーションウイスキーの存在だったのでしょう。当時、日本では僅かながらウイスキーが造られていたのですが、アルコールに香料を加えただけのイミテーションウイスキーは、手間隙かけて醸造したウイスキーの味わいとは全くの別物。竹鶴は「本物のウイスキーを造り、一人でも多くの日本人に飲んでもらいたい」との思いを高めるようになり、ますますウイスキーに没頭していったのです。

旅立つ〜“本物”を学びに、スコットランドへ渡る。

ウイスキーのルーツを辿る

クリックすると拡大します ウイスキーの源流は、いわずもがなスコットランドにあるが、その歴史は4世紀のアレキサンドリアにまで遡ることができる。この頃、錬金術師たちが蒸溜技術を発見したのをきっかけに、全世界にその技術が伝えられるようになり、各地で蒸溜酒が作られるようになっていった。ウイスキーに関しては1171年のアイルランドで作られていた大麦原料の蒸溜酒「ウスケボー」が原型とされる。また、スコットランドでは1494年に修道院でモルトウイスキーの原型を製造していたようである。モルトウイスキーがスコットランドの地酒として広まったのは18世紀に入ってから。ただし、当時のウイスキーは無色透明であった。そこから今のウイスキーの形に変化したのは、ウイスキーに重税がかけられる時代になり、小型蒸溜器による酒の製造が禁止されたことを受け、庶民の間で密造が流行するようになってから。麦芽の乾燥には庶民でも簡単に手に入った「ピート」を燃料として、また人目から隠すためシェリー酒の空樽に密かに貯蔵された。その結果、ピートのスモーキーな香りが付くと同時に、シェリー樽で熟成したことで樽の色が液体に移り、現在の琥珀色で芳醇な香りを持つモルトウイスキーが誕生したのである。 ある意味では“偶然”の産物だった、ということもできるだろう。以後、大英帝国の発展の中で世界にウイスキーが広まり、今日の隆盛を迎えるのである。なお、竹鶴がスコットランドに留学した20世紀初頭は、いわゆるモルトウイスキーに、グレーンウイスキーを混ぜた「ブレンドウイスキー」が世界に広まった時代だった。帰国後、竹鶴はブレンドウイスキーを志向して、国内での設備投資に尽力したが、その原点は留学時の環境にあったのは間違いない。ちなみに、ブレンドウイスキーの味の決め手となるモルトウイスキーは、スコットランドでは「ハイランド」「ローランド」「アイラ」「キャンベルタウン」の4種類に大別される。竹鶴が最初に実習したエルギンはハイランド地方にある。

竹鶴はどのような留学生活を送ったのでしょうか。

平井まず、竹鶴はスコットランド有数の大都市であるグラスゴーに住み、聴講生としてグラスゴー大学へ入学しました。でも、日本で醸造の知識を学んだ竹鶴にとっては物足りない講義内容だったようです。次第にウイスキー製造の現場で学びたいと思うようになり、ハイランド地方にあるエルギンに向かいます。特にツテがあったわけではありません。学びたい一心で竹鶴は飛び込みで実習先を探す日々を送りました。ウイスキーは英国の重要な輸出品ですから、外国人に門戸を広げる蒸溜所はなかなか見つかりませんでしたが、苦労した末に、ようやくロングモーン・グレンリベット蒸溜所で短期ながらも実習を受け入れてくれたそうです。蒸溜釜の構造を知りたいからと、誰もがいやがる釜の内部の洗浄作業を率先して行うなど、竹鶴は真摯な姿勢で学び続けたといいます。

当時の努力の結晶が「実習ノート」として残されているそうですね。

平井はい。その後、竹鶴はキャンベルタウンにあるヘーゼルバーン蒸溜所で長期間の実習に入りました。ここではモルトウイスキーばかりではなく、グレーンウイスキーの製造について学んだほか、工場長からブレンダーとしての指導も受け、ブレンドウイスキーのノウハウも身に付けるなど、ウイスキーにかかわる総合的な視点を築いた時期だったといえます。日本人では手に入らなかったウイスキー製造のノウハウを習得したい。そんな風に考えた竹鶴は、この時期に「竹鶴政孝実習ノート」を2冊作成しています。ウイスキーの造り方や製造機の形状・サイズなどが事細かに記されたこのノートは、日本でのウイスキー蒸溜所設計の基礎となる存在だといっても過言ではありません。会場のみなさんには再現したものを閲覧していただきますが、いかに竹鶴がウイスキーに情熱を注いでいたのかがご理解できる内容になっていると思います。私自身はこのノートで特筆すべきは、工場労働者の処遇や日常生活に至るまでを観察し言及している点にあると考えています。おかげで、竹鶴は日本で蒸溜所を展開する際の経営者的視点を身につけていったのではないでしょうか。竹鶴の細やかな視点には感服するばかりです。

竹鶴がスコットランド留学時代にウイスキーの製造技術から労働者の処遇や日常生活に至るまでを事細かく観察し記録した「実習ノート」。この2冊のノートが国産ウイスキーの礎を築いた。

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プロフィール

平井光雄さん(ひらい・みつお/ニッカウヰスキー株式会社取締役)

北海道大学農学部卒。1972年ニッカウヰスキー株式会社に入社。2001年ニッカウヰスキー仙台工場長、2004年ニッカウヰスキー北海道(余市)工場長を歴任。新入社員の時に日本のウイスキーの父竹鶴政孝氏の薫陶を受ける。主に、ウイスキーの製造に関わる研究開発、品質管理、品質保証等の業務に関わる。好きなウイスキーは、「竹鶴12年」と「スーパーニッカ」。趣味は登山。