炭酸の歴史

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138億年前〜中世

宇宙の始まり〜
炭酸利用の始まり

138億年前
二酸化炭素

インフレーション〜ビックバン

「無のゆらぎ」から生まれた小さな宇宙が何らかの理由で消えずに、インフレーションと呼ばれる急速な膨張を引き起こしました。その結果、真空のエネルギーが熱エネルギーに変換され、高温かつ高密度な火の玉宇宙が生まれました(ビッグバン)。この宇宙誕生後、最初の3分間ですべての物質の元となるものが生み出されました。
46億年前
二酸化炭素

超新星爆発により太陽系が誕生

超新星爆発により原始太陽が形成され、その周りにはガスやダストが集まった直径10kmほどの微惑星が無数に生まれます。これらの微惑星同士が衝突・合体を繰り返し、原始惑星、原始地球が誕生しました。
40-6億年前
二酸化炭素

二酸化炭素の星「地球」の誕生

この微惑星同士の衝突の過程で惑星内部から揮発性成分である水や二酸化炭素が、ガス(衝突脱ガス)として噴出。噴出した水(蒸気)による温室効果で地表面温度が上がり、地球はマグマオーシャンと呼ばれるマグマに覆われた状態になりました。マグマは水蒸気を吸収するため温室効果が弱まります。温度が下がると今度は大気中の水蒸気が雨となって地表に降り注ぎ、原始海洋が誕生しました。地球は、雨により大気中の水蒸気が減ったことで、大気の9割が二酸化炭素で占められる炭酸ガスの星になったのです。
その後、大気中の二酸化炭素は海に吸収されながら、大陸の誕生により陸地にも固定されました。さらに二酸化炭素は、光合成生物の誕生、大酸化イベント(約25億年前)と新原生代酸化イベント(約6億年前)による酸素濃度の急上昇を通じて減少していきます(=酸素レベル増化)。酸素が地球の大気の主成分となったのは、わずか数億年前の出来事に過ぎません。
現在、地球の二酸化炭素は、大気、海、陸地、海底を50万年サイクルで循環し、私たちはその壮大な循環サイクルの中で、地中から湧出する鉱泉を通じて炭酸水と出会い、活用や研究を続け、今日の多様な炭酸文化をつくり上げてきました。
紀元前1200年頃
炭酸水

炭酸泉療養が行われる

トロイア戦争におけるギリシア軍の総大将アガメムノンが、傷ついた兵士を鉱泉で治療したと伝えられています(アガメムノンの温泉)。
アガメムノン: ギリシア神話の英雄。「トロイの木馬」で知られるトロイア戦争におけるギリシア軍の総大将。この戦争は、トロイア(トロイ)の王子パリスが、スパルタ王メネラオスの美貌の妻ヘレネを誘惑し連れ去ったことが発端とされています。アガメムノンは、メネラオスの兄。
紀元前古代ローマ時代
炭酸水

炭酸水の飲用利用が始まる

炭酸水の飲用利用は、古代ローマ時代にローマ人が炭酸ガスを含む鉱泉水を飲んだことが始まりとされています。西部ヨーロッパを征服した際に発見した温泉(炭酸泉)が低温だったため、入浴ではなく飲料として使ったのが始まりだといわれています。その後、炭酸水が健康増進に役立つことから、病人にも飲まれるようになっていきました。
紀元前1世紀頃
炭酸飲料

クレオパトラ、
真珠で炭酸飲料をつくる

クレオパトラ7世は美容と不老長寿の秘薬として、真珠をぶどう酒に入れて溶かしたものを飲んでいたといわれています。ローマの博物学者、大プリニウスは「博物誌」の中で、クレオパトラがアントニウスと宴会の豪華さを競う賭けをした際、歴史上最も大きいとされる2つの真珠の内の1つを酢に溶かして飲み干し、残りの1つも同じようにしようとしたところで審判が止め、クレオパトラの勝ちが宣告されたというエピソードを紹介しています。実際に真珠をぶどう酒や酢に入れると、真珠の主成分である炭酸カルシウムが酸に溶け、炭酸ガスが発生します。「博物誌」に記されたエピソードが事実なら、クレオパトラが飲んでいたのは、現在のスパークリングワインに似た飲み物であると考えられます。
クレオパトラ7世(紀元前69-30): 「絶世の美女」として知られる、エジプトを治めたプトレマイオス朝最後の君主。18歳で王位を継承。エジプトにやってきたローマの最高権力者カエサルやアントニウスと恋に落ちますが、その最期はローマの捕虜となることを拒み、毒蛇に胸を咬ませて自害したといわれています。
694
炭酸水

炭酸水を飲み病が治癒
(「日本書紀」)

「日本書紀」30巻に、持統天皇の時代、近江国益須郡(滋賀県守山)の都賀山で湧出した「醴泉(れいせん)」を飲んだ多くの人の病が治ったという記載があります。また、この泉の発見者には褒美が与えられ、その地の役人は昇進し、農民の税金は免除されたという記録も残されています。これは、日本最古の飲泉の記録といわれています。江戸時代後期の蘭学者宇田川榕庵によると、日本各地に伝わる「醴泉」は「炭酸泉」と考えられるとのことです。
宇田川榕庵(うだがわようあん): 日本初の体系的化学書「舎密開宗(せいみかいそう)」を著し、「酸泉は炭酸ガスを含み、酸味があって舌にしみとおり、酔い心地を催されることもある(古書にある醴泉はこの類のものであろう)」と解説。
717
炭酸水

元正天皇、炭酸泉で
手と顔を洗い改元(「続日本紀」)

「続日本紀(しょくにほんぎ)」7巻に、元正天皇が美濃多度山の泉(岐阜県養老郡にある炭酸ガスを含む菊水泉)で手と顔を洗ったところ、肌が滑らかになり、痛いところは痛みがとれた。昔、醴泉を飲んだ者みな病気が治ったと聞いたことがあり、この泉は端兆(めでたいこと)であるとし、霊亀3年を養老元年へ改元したことが記録されています。
平安時代900年代
三ツ矢サイダー

三ツ矢平野水(ひらのすい)伝説

平安時代の中頃、源満仲(ミナモトノミツナカ)という武将がお城を作ろうと神社に祈りをささげたところ、「矢の落ちた所に作りなさい」とお告げがあり矢を放つと、多田沼の“九頭の龍(クズノリュウ)”に命中したそうです。そこで、満仲はここに城をかまえ、そのときに矢を探しあてた男に、三ツ矢の姓と三本の矢羽の紋が与えられました。また、あるとき満仲は鷹狩りに出て、偶然、近くの谷に湧く水で鷹が足の傷をなおして飛び立つのを目の当たりにしました。これが平野村の天然鉱泉でした。この平野が三ツ矢という姓の発祥の地で、明治時代にこの故事にならい湧き出ていた天然鉱泉を「三ツ矢平野水(ヒラノスイ)」と名付けて発売しました。
源満仲(912-997): 平安中期の武将。源頼朝や義経の祖先にあたる人物。弓の名手として知られています。藤原氏と政治的なつながりを持つことで、中央での地位を確立。摂津多田(兵庫県川西市)に住み、多田源氏と称しました。
近世

炭酸研究の始まり

1620
炭酸研究

炭酸水の気泡、
「ガス」と命名される

ヴァン・ヘルモント(ベルギー)、天然炭酸水(鉱泉)に含まれる気泡を「ガス(Gas)」と命名。
ヴァン・ヘルモント(1579-1644):ガス化学の創始者。気体にガスという名称を初めて用いました。鉱泉の泡や発酵で生ずる二酸化炭素を「ガス・シルウェストル」(Gas Syluestres)と命名。酸類を石灰石や灰に注いだ時や、ビールやぶどう酒の発酵に伴い発生するものであることを突き止めました。炭酸ガス(Carbon Gas)という名称も用いました。
1750
炭酸研究

医療用炭酸水「エァレイテッド・ウォーター」製造

ガブリエル・ヴァネル(フランス)、医療用人工炭酸水を製造、「エァレイテッド・ウォーター(aerated water)」と命名。
ガブリエル・ヴァネル(1723-1775): フランスの化学者。酸性の水に炭酸塩類を加えて医療用の人工鉱泉水をつくり、「エァレイテッド・ウォーター」と呼びました。その後、プリーストリーもこの言葉を使用したため「aerated water」は今も炭酸水(carbonated water)の意味で使われています。
1754
炭酸研究

炭酸ガス(CO2)の発見、「固定空気(Fixed Air)」と命名される

ジョセフ・ブラック(スコットランド)、石灰岩の中にある炭酸ガス(CO2)を発見し、「固定空気(Fixed Air)」と命名。
ジョセフ・ブラック(1728-1799): 定量的な研究で気体化学の発展に貢献したイギリスの化学者。医学の学位論文用の研究が、後の炭酸ガスの発見につながりました。
1770
炭酸研究

天然炭酸水の人造化成功

トルビョルン・ベリマン(スウェーデン)、天然炭酸水の人造化に成功。
トルビョルン・ベリマン(1735-1784): スウェーデンの化学者。石灰と硫酸で炭酸ガスを発生させ、天然炭酸水の人造化に成功します。もともと自身の療養のためにドイツから鉱泉水を取り寄せて飲用したところ体調が良くなったことから、鉱泉水を分析、その成分を混合したもので、自家用レベルの発明でした。
1772
炭酸研究 炭酸水 炭酸飲料

炭酸飲料の製造法の発明

ジョセフ・プリーストリー(イングランド)、固定空気の研究から効率的に炭酸水をつくる方法(瓶の中で発生させた二酸化炭素を、水を満たして逆さまにした別の瓶へ入れ、振って混合する)を発明しました。
ジョセフ・プリーストリー(1733-1804): 化学史上、誰よりも多くの新しい気体を分離して研究したイギリスの牧師、化学者、実験家。自宅の隣にあったビールの醸造所で発酵ガス(固定空気)に興味を持ち研究に取り組む。炭酸水の効率的な製造法を開発し「ソフトドリンクス産業の父」と呼ばれています。酸素の発見者としても知られています。
1770-1780年代
炭酸研究

固定空気、
「炭酸ガス」と命名される

アントワーヌ・ラヴォアジエ(フランス)、空気の分析、発酵現象などの研究から、それまで「ガス・シルウェストル」、「固定空気」と呼ばれていたものを「炭酸ガス」または「二酸化炭素」と命名。
アントワーヌ・ラヴォアジエ(1743-1794): 優秀な官僚であり、大化学者。化学現象の定量的分析を体系化し、近代科学の基礎を築きました。空気と燃焼の研究で知られ、「酸素」「窒素」もラヴォアジエの命名によるものです。
近代現代

炭酸水/炭酸飲料の
始まり

1790
炭酸研究

炭酸水の工業生産が始まる
(スイス・ジュネーブ)

ジェイコブ・シュウェップ(スイス)、プリーストリーの友人だった機械技師ポールらと「シュウェップ=ポール=ゴス合名会社」設立。炭酸水の工業的生産が始まりました。
ジェイコブ・シュウェップ(1740-1821): ジュネーブの時計技師でアマチュア科学者。炭酸水の工業生産に成功した後、ポールらとたもとを分かち、1798年にシュウェップ社を設立。シュウェップの製品は炭酸が弱く、それが天然の鉱泉水に似ていることから高い評価を受け、1831年には英国王室御用達に。瓶の形状が卵型だったことからエッグソーダと呼ばれ、夕食時の食卓用、腎臓病の治療用、重症腎臓病の患者用の3種類がありました。
1850-1852年頃
炭酸飲料

「ジンジャー・エール」誕生

ベルファストやダブリンで「ジンジャー・エール」が開発され、インド駐在イギリス軍やアメリカへ輸出されました。
1853
炭酸飲料

ペリーとともにラムネが
日本上陸 !?

浦賀来航時のペリー提督の船には、飲料水の一部としてレモネード(ラムネの原型)が積まれていました。幕府の役人がこれを飲み、日本における炭酸飲料1号となったということが、「開栓時の音(瓶の破裂の音?)に驚き、『さては新式銃か!』と腰の刀に手をかけた」という逸話とともに伝えられています。しかし、これはラムネをビジネス化するためのエピソード広告の類という分析もあり、その真偽は定かではありません。ただし、1854年に長崎に入港したイギリス船に清涼飲料水が積まれていたという情報が残っており、これがレモネードだったのではないかと推測されています。いずれにしてもこの時期に日本のラムネの歴史が始まったと考えられています。
ペリーが持参した手土産は「ビール」だった!?
ペリー提督は、浦賀来航時に手土産としてビールを持参しています。この時の幕府の通訳でオランダ医学者の川本幸民はビールに興味を持ち、自宅でビールを醸造したといわれています(日本で最初のビール製造)。
マシュー・ペリー(1794-1858): アメリカ海軍の軍人。蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)とも呼ばれています。1853年7月8日、浦賀に入港し開港交渉にあたりました。ちなみにペリーは、ニューヨーク州サラトガの鉱泉水が好きだったといわれています。
1859
その他

心臓病に対する炭酸泉の効果が明らかになる
(ドイツ・バートナウハイム)

心臓病に対する炭酸泉の効果が明らかになる(ドイツ・バートナウハイム)
1865
炭酸飲料

国産第1号のラムネ誕生

長崎の藤瀬半兵衛がレモネードの製造法を学び、国産第一号のラムネ(レモン水)を販売。※諸説あり
1868
炭酸飲料

サイダーの国内製造販売始まる

英国人ノースとレーによる「ノース・アンド・レー商会」が横浜に工場を建設し、ラムネ、ジンジャー・エール、シャンペンサイダーなどの清涼飲料水を製造販売(ノースが支配人、レーが助手)。販売の大半は在留の外国人や外国艦船が対象で、日本人は一部の上流階級に限られていました。
1880
炭酸水

「山城炭酸水」

日本人向けに製造された最初の炭酸水。1880年の「東京絵入新聞」に広告(1本20銭)が掲載されています。※ただし資料が少なく詳細は不明
1881
炭酸水

天然鉱泉「平野水」の再発見
(兵庫・平野)

外国人接待のための炭酸水を探していた明治政府の依頼を受けたウィリアム・ガウランドが、かつて湯治場として栄えていた平野鉱泉の平野水を“再発見”し、改めて水質を分析したところとても優れていることが分かりました。ちなみに平野鉱泉が最初に発見されたのは、平安時代の安和年間(968-970)で、応徳(1084-1087)に栄え、江戸時代は湯治場として利用されていました。
ウィリアム・ガウランド(1842-1922): 1872年からお雇い外国人として造幣寮(のち造幣局)の技師を16年間務めました。古墳の研究で知られ、日本考古学の父とも呼ばれています。「日本アルプス」の命名者としても知られています。

源泉地室(左側が井戸、右側がポンプ小屋)
・2010年撮影

ポンプ小屋に掲出された「源泉地室の表札」
・2010年撮影

1884
三ツ矢サイダー

「平野水」製造開始=
三ツ矢サイダーのルーツ

兵庫県川辺郡平野村(現、川西市)から湧き出た炭酸水を瓶に詰め「平野水」として製造開始。
1886
炭酸飲料

「コーラ」誕生

アトランタの薬剤師ジョン・ペンバートン、前年につくった「フレンチ・ワイン・コカ」をベースに「コーラ」を開発。
1889
ウィルキンソン

ウィルキンソン、兵庫県宝塚で鉱泉水を発見

ウィルキンソンが、兵庫県宝塚(現、兵庫県宝塚市)で狩猟の途中に炭酸鉱泉を発見。湧出水をロンドンの分析機関に依頼して試験したところ、世界の名鉱泉と肩を並べる良質な食卓用炭酸水であることが分かりました。

ジョン・クリフォード・ウィルキンソン(1852-1923): イギリスのヨークシャーに生まれ、1876年初来日。1880年に事業家を志して再来日、大阪鉄工所(のちの日立造船)を創業したエドワード・ハンターが経営する平野精米所の技師を務めました。炭酸水事業を興した後は、宝塚の鉱泉近くで外国人客を対象にした洋式高級ホテル「タンサンホテル」も経営しました。

1890
ウィルキンソン

「TAKARADZUKA MINERAL WATER
(宝塚ミネラルウォーター) 」を発売

資材、設備一切を英国より取り寄せ、鉱泉の瓶詰を生産開始。「TAKARADZUKA MINERAL WATER (宝塚ミネラルウォーター) 」を発売。※後の「TANSAN」
1892
ウィルキンソン

「TAKARADZUKA MEDICINAL WATER」を発売

薬効水として「TAKARADZUKA MEDICINAL WATER」を発売。※後の「NIWO」
1893
ウィルキンソン

ミネラルウォーター「TANSAN (タンサン) 」を発売

「TANSAN」を商標に制定し、ミネラルウォーター「TANSAN (タンサン) 」を発売。
1893-1896
ウィルキンソン

薬効水として「NIWO(仁王水)」を発売

薬効水として「NIWO(仁王水)」を発売。「胃腸を仁王の如く強くする」というコンセプトから、仁王像マークが使用されたと言われています。仁王像の顔のモデルは、ウィルキンソン氏本人であったそうです。その後、「TANSAN」にも使用されるに至ったと考えられます。
1897
三ツ矢サイダー

「三ツ矢印平野水」が
御科品として採用

宮内省侍医局員の山田薫薬学博士が各地の鉱泉を巡視・分析した結果、「三ツ矢印平野水」が東宮(当時の皇太子、後の大正天皇)の御料品に採用されました。
1899
炭酸飲料

サイダーの始まり

横浜で「金線サイダー」の製造が始まりました。※時期については諸説あり
1901
ウィルキンソン

ウィルキンソン、王冠(クラウンコルク)の使用開始

ウィルキンソンの炭酸水は鉄を腐蝕する力が強く、王冠のコルクを通して口金部分に穴が空き、炭酸水がにじみ出してしまうという事態が発生。研究を重ね、コルクと口金の間に入っているパラピン紙を錫(すず)に変える方法で解決しました(1907年頃)。

ウィルキンソンの王冠。王冠(クラウンコルク)は、1892年にアメリカの発明家ウィリアム・ペインターによる発明。形状が貴族がかぶる王冠に似ていることから、その名が付けられました。

1904
ウィルキンソン

「ウヰルキンソン タンサン」発売

周りに「タンサン」という商品が増えてきたこともあり、混同を防ぐために商標を付けた商品名を「ウヰルキンソン タンサン」に変更しました。工場を現在の兵庫県西宮市塩瀬町生瀬に移転し、「宝塚工場」として操業開始。

赤白黒の3色に統一された工場は住民の注目の的だった

宝塚工場での瓶詰作業

「ウヰルキンソン タンサン」は一流ホテルに常備される高級品として普及しました。一方で、国内で市販する量は少なく、販売はフィリピン、米国、カナダ、シンガポールなど海外を中心に販路(国内外27カ所)を広げていきました。
1907
三ツ矢サイダー

「三ツ矢印平野シャンペンサイダー」発売

「平野水」が、炭酸鉱泉水からシャンペンサイダー(シャンパン風の色合いを出すためにカラメルで琥珀色に着色)へと生まれ変わりました。
1909
三ツ矢サイダー

「三ツ矢サイダー」の通称を使用

「三ツ矢シャンペンサイダー」の“シャンペン”を省略した「三ツ矢サイダー」の通称を使用。
三ツ矢サイダー
1910
三ツ矢サイダー

夏目漱石、「平野水」を飲む

胃潰瘍に苦しんでいた夏目漱石は、入院中に「日に数回平野水を一口ずつ飲ましてもらう事にした。平野水がぐんぐんと音を立てるような勢いで、食道から胃へ落ちて行く時の心持は痛快であった」と記しています。また、漱石の二男が冷蔵庫の「平野水」を「サイダー」と間違えて飲み、(甘くないので)あわてたという思い出話も残っています。なお、漱石の「炭酸水」好きは、ロンドン留学中に「胃弱」の症状に良いとされていた「炭酸水」を飲んだことがきっかけかもしれません。
夏目漱石(1867-1916): 英国留学中に極度の神経症に悩まされる。帰国後、一高、東大で教鞭をとります。「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」など話題作を発表。その後、東大を辞し、新聞社に入社、創作に専念しました。「明暗」執筆中に胃潰瘍が悪化し永眠。
1921-1926
三ツ矢サイダー

宮沢賢治、「三ツ矢サイダー」を飲む
(天ぷらそばとともに)

宮沢賢治は花巻農学校の教師時代、「やぶ屋」というそば屋が行きつけでした。「ちょっと一杯」という時は、お酒ではなく「サイダー」を天ぷらそばと一緒に頼むのが“賢治流“でした。そのサイダーは、時期から考えて「三ツ矢サイダー」と思われます。
宮沢賢治(1896-1933): 岩手県花巻生れ。1921(大正10)年から5年間、花巻農学校教諭。山野跋渉を文学の礎としました。教え子との交流を通じ岩手県農民の現実を知り、羅須地人協会を設立、農業技術指導など、農民の生活向上に取り組みました。
1945
三ツ矢サイダー

戦艦大和でも飲まれていた「三ツ矢サイダー」

戦艦大和の「酒保」(艦内の売店)には、サイダーが常備されていました。三ツ矢サイダーは「軍用品」としてのレシピが残されてることから、日本軍に納められていたと考えられています。
1966
ウィルキンソン

ウヰルキンソン ジンジャーエール、ドライジンジャー
エール、レモネード、トニックの4品種を新瓶にて発売

瓶の形状と三角形のフレーバーロゴのデザインは、「口紅から機関車まで」をモットーに流線型デザインで一世を風靡(ふうび)したフランス出身の著名デザイナー、レイモンド・ローウィー氏が手がけました。
※2015年 グッドデザイン・ロングライフデザイン賞受賞
ローウィーデザインの三角ロゴ、瓶
1968
三ツ矢サイダー

「三ツ矢サイダー」が透明飲料として発売開始

「三ツ矢シャンペンサイダー」から現在の「三ツ矢サイダー」となる。子供にも安心して飲ませられる清涼飲料水としてアピール。
1979
ウィルキンソン

東京サミットで
「ウヰルキンソン タンサン」が飲料水として採用

「ウヰルキンソン タンサン」が、日本で初めて開かれた東京サミットのテーブルウオーターとして採用されました。これは、ガス入りのミネラルウオーターを食事の際に飲む、ヨーロッパの習慣を日本人が知るきっかけとなりました。

「ウヰルキンソンタンサン」

1989
ウィルキンソン

ロゴのカナ表記を「ウィルキンソン」に

「ウヰルキンソン」から「ウィルキンソン」へと変更しました。
2004
ウィルキンソン

「ウィルキンソン」100周年

2011
ウィルキンソン

炭酸水の直接(ストレート)飲用というスタイルが広がる

「ウィルキンソン タンサン」のPETボトル(500ml)発売。
「ウィルキンソン タンサン」PETボトル
2013
三ツ矢サイダー

トクホ「三ツ矢サイダープラス」

「三ツ矢サイダー」初の特定保健用食品、“食後の血糖値の上昇を抑える”「三ツ矢サイダー プラス」発売。
2016
三ツ矢サイダー

炭酸市場初のWトクホ「三ツ矢サイダーW(ダブル)」

“食後の血中中性脂肪の上昇をおだやかにする”“食後の血糖値の上昇をおだやかにする”のダブルの機能を持った「三ツ矢サイダーW(ダブル)」発売。
「三ツ矢サイダーW」
2018
ウィルキンソン

機能性表示食品の登場

“脂肪の吸収を抑える” 機能性表示食品「ウィルキンソン タンサン エクストラ」発売。
「ウィルキンソン タンサン エクストラ」
2019
ウィルキンソン

「ウィルキンソン タンサン」発祥の地に
「天然たんさん水 この下にあり」100年前の石柱復元

兵庫県宝塚市湯元町の宝来橋のたもとに、100年前にあった「天然たんさん水 この下にあり」と刻まれた石柱(川の氾濫などで消失していた)が復元され、ウィルキンソン タンサン発祥の地を今に伝えています。
2024
ウィルキンソン 三ツ矢サイダー

「ウィルキンソン」120周年
「三ツ矢サイダー」140周年

※炭酸の歴史情報は、参考文献をもとに当社が独自で整理したものです。