1. トップページ
    2. 研究開発
    3. Passion of Blue
    4. アサヒグループホールディングス(株) グループ食の安全研究所 所長 鈴木 康司

酵母研究のリーディングカンパニーとしてのプライドと責任を胸に 酵母研究のリーディングカンパニーとしてのプライドと責任を胸に

グループ食の安全研究所 所長 鈴木 康司 Koji Suzuki

1990年代始め、日本のビール業界は転換期を迎えていました。
新鮮な香味をお客様にお届けできる非加熱製法の「生ビール」が登場し、驚くべき速さで市場が拡大していたのです。
日本では「生」という言葉が「新鮮でおいしい」というイメージとつながったこともあり、1996年3月には日本で生産される99%以上が生ビールとなり、日本独自の生ビール市場が形成されました。

一方、工場ではビールの味を変質させる微生物との静かな戦いが始まっていました。

その戦いに終止符を打つ画期的な検査方法の開発に携わり、世界トップレベルの衛生環境を誇るアサヒの工場づくりに貢献した、鈴木さんにお話を伺いました。

ミッションは「加熱殺菌を使わず、おいしさを守り続けること」。
立ちはだかった二つの課題とは。

ー生ビールづくりにおける、微生物との戦いとは一体どのようなことなのでしょうか? 鈴木:ビールは、微生物が混入すると時間の経過とともに濁りが生じ、味が変化してしまうことがあります。海外で一般的な加熱殺菌ビールでは、製造工程の最後に熱処理を行うことで、微生物によるビールの変質を防いでいます。しかし、加熱殺菌を行わない生ビールでは、ビールを変質させる不要な微生物が混入しないように細心の注意が必要となります。

多くの微生物はビール原料のひとつであるホップに含まれる天然抗菌成分により増殖が抑えられますが、微生物の中にはホップ耐性を示す菌種が稀にあり、私たちはそれを「ビール混濁性微生物」と呼んでいます。このような微生物が混入することのないよう、工場では様々な対策が取られていますが、彼らは人が思いもしない経路で入り込む、強い生命力を持った生き物です。

ビール製造会社はこのようなビール混濁性微生物をいかにして発見し、工場から撲滅するか、という課題と常に向き合ってきました。

ー多くの企業が頭を悩ませていた課題に対し、どのような作戦を立てて取り組んだのですか? 鈴木:ビール混濁性微生物の約7〜9割が乳酸菌であることから、私たちは乳酸菌に注目したのですが、検査方法を開発するにあたり、当時は大きく2つの課題がありました。

1つ目は、工場の品質検査で乳酸菌を漏れなく検出できる検査培地が欠如していた問題です。
ビール混濁性を有する乳酸菌は、なぜか通常の検査培地で増殖しないものが多く、検査漏れのリスクがありました。

2つ目は、未知菌種の台頭です。
過去に発見されたことのある乳酸菌種であれば、これまでの経験から、その菌に混濁性があるのかすぐに予見できるのですが、初めて出会う乳酸菌種の場合は混濁性の有無を判断することができません。
その場合、実際にビール内で培養して混濁性の有無を判定していましたが、ビール内での生育が非常に遅いため、結果が出るのに2週間から3か月の時間が必要でした。
これでは実用性は全くありません。

私たちのミッションは2つの課題を解決し、ビール混濁性乳酸菌の新しい検査培地の開発と、ビール混濁性判定の大幅な時間短縮を実現することでした。

発想の転換が、課題解決のブレークスルーになった

ーまず最初に取り組まれた検査培地の開発についてお聞きしたいのですが、最も大きな壁となったのはどんなことでしたか? 鈴木:検査培地の開発には「なぜビール混濁性乳酸菌は通常の検査培地で増殖しないのか」という謎を解明することが至上命題でした。この謎を解明するためには、培地で増殖しない乳酸菌を手に入れなくてはいけません。

しかし、これは非常に難題でした。

微生物研究をされている方ならわかると思いますが、培地で増殖しない菌を研究することは非常に困難で、当時は新規検査培地開発のための供試菌株もない時代でした。
この研究のスタートラインに立つためには、まずは難培養性供試菌株の取得から始める必要がありました。

ある時、培地で増殖する乳酸菌をビールに何十回も植え継いで徹底的な馴化培養を行うことで、「培地で増殖しない乳酸菌」に変化させることが可能ではないか、という、誰も考えたことがない仮説が私の中に浮かんだのです。

ーそんなことがあるのですか!非常に面白い仮説ですね。 鈴木:ビール製造環境に潜むビール混濁性乳酸菌は、大多数の微生物が棲息困難なビールという極限環境に高度に適応して進化してきた微生物であると考えたわけです。そのため、品質管理の場で検査に使用される栄養成分たっぷりの培地は、逆に棲息環境として異なりすぎているため、増殖性を喪失しているのではないか、と考えました。

そのアイデアを信じ、ビール植え継ぎ条件の試行錯誤を続けた結果、仮説通りのことが起こりました。

最初の株を得るのに10年程の時間を要しましたが、不思議なことに、一度方法が分かるとあんなにも難しかった難培養株が次々に取得できるようになりました。

こうして得られた菌株を使って新規培地開発に挑み、従来の検査培地に含まれる栄養成分が生育を阻害していることなどを突き止め、ビール混濁性乳酸菌の検出に特化した、ABD(Advanced Beer-spoiler Detection)培地が完成したのです。

これまで網羅的にビール混濁性乳酸菌を検出できる検査培地がないとされてきた常識を打ち破ることができました。

世界に先駆け、ホップ耐性遺伝子を発見

ー検査時間の大幅な短縮には全く新しい技術開発が必要だと想像しますが、ビール混濁性判定の技術開発の方はどのように進めたのでしょうか? 鈴木:ビール混濁性乳酸菌はホップ耐性に関わる遺伝子を特異的に持っていて、これを検出することで判定できないかと考えました。
実現すれば、3か月近くかかっていた検出菌のビール混濁性判定をわずか数時間に短縮することができます。当時はまだ、遺伝的な手法が食品業界に入り始めたばかりの頃でしたから、技術も未熟でとても苦労しました。

解決の糸口となったのは、先ほどの培地開発と同様、ホップ耐性を獲得しビールに馴化する乳酸菌でした。
当時、私の先輩であり師だった佐見学さん(現・アサヒグループホールディングス 執行役員 研究開発部門ゼネラルマネージャー)が、おもしろい発見をしました。乳酸菌がホップ耐性を高め、ビールでの生育が良くなるにつれ、プラスミドという小型のDNAの1つにコピー数が増えていくものがある事を突き止めたのです。

私たちはこの中にホップ耐性に関わる遺伝子があるに違いないと考え、プラスミドDNAのすべての塩基配列を調べ、データベースを使って遺伝子の働きを推測するという作業を繰り返しました。

その過程で、「MDR1」というヒトがん細胞が持つ、薬剤耐性に関わる膜たんぱく質と非常によく似たアミノ酸配列をコードする塩基配列を見つけたのです。

「これだ!」と思いました。
乳酸菌は、この遺伝子によって抗菌作用を持つホップ成分を対外へ排出し、ホップ耐性を獲得しているのではないかと考えたのです。

私たちはこの遺伝子に「horA」と名前を付け、horAの有無を調べる検査を試してみました。
すると、97%の正答率で、ビール混濁性を判定することができたのです。

ー日本中のビール会社が待ち望んでいた技術が遂に完成したのですね。 鈴木:実はここからが大変でした。
当時は、ヒトのMDR1に類似した膜たんぱく質をコードする遺伝子を微生物が持っているという事例は報告されておらず、なかなか信じてもらえなかったのです。
他の研究者からは、「horA」の名前に掛けて「ホラ遺伝子」と揶揄されることもありました。
97%の正答率で見分けられることも逆に怪しいと思われたのかもしれません。

1996年のhorA遺伝子発見当時、菌種に依存せず悪玉菌を一網打尽に判定できる検査法は食品業界に存在せず、遺伝学的検査が先行していた臨床微生物研究の世界にさえもなかったように思います。
この技術が信頼に足ることを多くの人に納得してもらうためには、論拠が足らなかったのです。

ー遺伝子の発見以上に、世の中の人に納得してもらうことがハードルになったのですね。 鈴木:そうですね。horAをもつ菌株からhorA遺伝子を欠落させたらホップ耐性を失い、逆にhorAをもたない菌株にhorA遺伝子を導入したらホップ耐性を獲得できることを示せば、horAがホップ耐性遺伝子であることを証明できます。
安心して技術を使ってもらうには大切なプロセスですが、この証明は遺伝子を見つける以上に難しかったです。

大腸菌のようなメジャーな微生物では遺伝子を扱う方法はかなり確立されていましたが、乳酸菌で、しかもビール混濁性乳酸菌という非常にマイナーな菌種では、簡単に実験できるツールがほとんどありません。
どうしてもうまくいかず、乳酸菌の遺伝子の扱いに長けていたオランダの研究機関に研究員を一人派遣したほどです。
2年ほどかけて実験の修業をし、ようやく証明に足るデータを得ることに成功しました。

その後、horA以外にもhorCと名付けた第二のホップ耐性遺伝子を発見し、ほとんど全てのビール混濁乳酸菌種が、新菌種・未知菌種を含めhorAやhorCといった遺伝子マーカーによって一網打尽に検出同定できるようになりました。

最初の遺伝子発見から実用化まで、実に10年ほどの時間が掛かりました。

ー周りに信じてもらえない中、10年もの年月をかけて研究を続けるというのは、どのような気持ちだったのでしょうか? 鈴木:私たちの中では「もうこれ以外の可能性は考えられない」という気持ちがありました。
会社の役に立つものを作り出さなくてはという使命感もあったと思います。

もちろん、実用化に向かって進んだのは、私たちの力だけではありません。
遺伝学的な研究が世界中で加速的に進んでいたこと、そして私たちの成果に関心を持って、ヨーロッパやアメリカなどの研究者が追試をしてくれ、第三者の手でも再現性があることを示してくれたことも大きな後押しでした。

かつては、ビール混濁性乳酸菌の研究は非常にマイナーな分野でしたが、我々が開拓した研究分野が世界中の研究者の力により飛躍的に進展し、今では、食品を腐敗させる微生物の研究分野においてはビール混濁性乳酸菌が最も最先端を走っていると言えます。

困難を乗り越え、革新的な検査方法は世界のビール工場へ

ー開発された検査技術は各方面で賞を取られていますが、周りに認められたと実感できたのはいつでしょうか? 鈴木:開発した検査方法が初めて現場で使われたのは、2006年〜2007年です。
学会からも「日本農芸化学会 農芸化学技術賞」(2011年)、「日本醸造学会奨励賞」(2007年)といった名誉ある賞をいただきました。ビール業界の発展に貢献したインパクトのある研究成果になったと感じ、とてもうれしかったですね。

また、一昨年アメリカで開催された世界ビール学会の展示会では、何社もの企業が私たちの研究成果を活用した検査キットを実用化し販売していました。話を聞きに行くと、弊社が開発したことを知らず、「この遺伝子検査方法、すごいですよ」と説明してくれる検査キットメーカーの方もいたりして、世界にも認められ採用されているという実感を得ることができました。

ー技術がどのような点に貢献できていると考えていますか? 鈴木:私自身は、乳酸菌がビールの品質を落とすという視点は一面的で、必ずしも乳酸菌がビールにとって悪役というわけではないと考えています。世界を見渡せば、乳酸菌も使って発酵させたビールもあるほどで、いろいろな楽しみ方ができる懐の深さがビールの魅力でもあると思っています。

しかし、製品という視点でみると、お客様に約束している品質、香り、味を常に守り届けることは、企業の責任です。そのためには無菌的に制御された環境の中で規格通りの製品を製造することが非常に重要です。

その点で、私たちの技術は大きく貢献できていると思っています。

また、どんなに優れた検査方法があっても、正しく検査し、その結果をフィードバックして製造工程の改善を継続していかなければその効果を最大限発揮することはできません。

現在、アサヒビールのビール工場は国内に8か所ありますが、品質管理における分析値は各工場で精度よく数値をぴったりと合わせることができているんですよね。
これは非常に難しい事です。
工場と研究所・製品保証センターが一体となって、真剣に取り組んでいる成果だと思います。

研究所や製品保証センターと現場の連携があって初めて、世界トップ水準の製造環境が維持され、アサヒビールが世界最大クラスの生ビール製造会社に発展したのだと考えています。

ー現在はグループ食の安全研究所の業務をされています。また新しい挑戦ですね。これから鈴木さんはどのようなことに挑戦されるのでしょうか? 鈴木:グループ食の安全研究所は、食の安全・安心を脅かす要因となるリスク物質や微生物の迅速検査法などを開発し、グループに貢献しています。
当社でもグローバル化が進み、日本だけでなく様々な国のお客様に製品を届けるようになってきています。国ごとにお客様が求める安全安心は異なります。

例えば、日本の消費者は化学物質、重金属といったものへの関心が高い傾向にありますが、微生物や食中毒菌への感度の方がずっと高い国もあります。
工場の仕様や、法律・規制も国によって異なりますし、日本とは様々な味覚や異臭に対する感度も全く違います。

「正常品」とはどういうものかという基準は、単に危険な物質・成分や微生物が何も入っていない、ということだけではないと考えています。

世界の飲料・食品で起こりうる食の安全・安心に関わる課題に対し、研究開発を進め解決していくことが私たちの使命です。